七里 恭三郎(ななさと きょうさぶろう、慶応3年(1867年) - 大正元年(1912年)8月24日)は明治期の官僚。初代台北弁務署署長(現在の台北市長)。
1867年、越後国新発田に生まれる。興亜会支那語学校にて中国語を学んだ後、1887年清国に留学する[1][2]。1894年に勃発した日清戦争に通訳として従軍し、その功績の高さから立見尚文陸軍少将の知遇を得て、後にその娘婿となる。戦後立見が台湾総督府軍務局長に就くとこれに従って台湾に渡り、1897年台湾総督府の辞令により初代台北弁務署署長(台北市市長)に就任する。翌1898年、基隆弁務署署長に異動となる。署長退官後再び中国本土に戻り、日露戦争に従軍して勲五等を授けられた[3]。日露戦争後は満州の吉林にて林業事業を起こしたが失敗し、川崎造船の駐中国顧問として北京や上海を往復する日々を送った[1][3]。1912年、上海からの帰国途上に病気にかかり、門司にて没した。 https://ja.wikipedia.org/…/%E4%B8%83%E9%87%8C%E6%81%AD%E4%B…